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「字体の統一」という名の、恣意的な文字いじり、傲慢極まりない

Aug. 7th, 2009 | 08:58 pm

衆議院の解散とかもあって、ついついアップデートが遅れてしまった。

web上での常用漢字の議論は、どんどん進んでいるようだ。
これらの議論を読んでいると、新聞協会などが主張していることのオカシサが明らかだ。常用漢字表に追加する文字の形を康煕字典体と異なるものにして、しんにょうの点を二点から一点にしたら、簡略化をどんどん膨張させていくことになり、「表外漢字字体表」のときに、表外字の簡略化を否定したことから、完全に180度方針転換となってしまう。

そんなことをしたら、常用漢字の改定のたびに、新しい簡略字体が生み出され、目安として国民に押しつけられることになってしまうではないか。それは無駄だ。

人間の言葉と文字を、自然な変化にまかせるのではなく、政府権力が勝手に変えてもよいのだという傲慢、その近代の浅はかな考えから、我々は脱却したのではなかったのか。新聞協会などの考えに従って文字の形を変えてしまったら、またもや権力による恣意的な字形の簡略化、その規範化を許してしまうことになるではないか。それは漢字という文化的な遺産と伝統に対する脅威となる。

それでは、過去の経験から何も学んでないことになる。そのような時代錯誤を許してはならない。





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おおい、NHK君、まちがってるよ!

Jun. 10th, 2009 | 08:28 am

6/9/2009の7:30 p.m.からのNHK総合テレビ『クローズアップ現代』で、新常用漢字表(仮称)のことが取り上げられていた。ところが…。

印刷書体における之繞の2点と手書き文字における1点の違いについて述べるべきところを、手書き文字に1点と2点の両方があるかのような説明をしていた。それは完全な間違いだ。

楷書で2点の事例はほとんどまれにしかない。通常手書きでは1点で書く。2点では書かない。

何を勘違いしているのか。この問題の本質を理解していない。
困ったものだ。放送は言いっぱなしだし。

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またまた、絵文字の議論、あら楽し

Jun. 10th, 2009 | 07:54 am

絵文字の議論、あら楽しという私の記事を読んでいただいた方がおられ、しかもそれについてブログ記事の中で言及されていることを知った。まったく驚くべき事態だ。このしばしば極論に偏る傾向のある、ロビンソン・クルーソーの孤島のようなブログの記事が取り上げられるとは! なんと光栄なことか。

ただ、一点私の記事について補足すると、私の意図は、何でもかでも互換性のためならコード化せよ、と主張することではなかった。

どんな絵文字を入れるべきか入れないべきかの議論もあって、適宜修正がなされることも当然で、それが標準化の審議の過程というものに違いない。そこにはいろいろなトレードオフがあるに違いない。しかし、対象が絵文字という興味深いものなもので、ついつい議論が過熱し、本来の提案の目的が見失われると、そもそも意味がなくなってしまう。そのことを危惧したのだ。

ということで、補足まで。


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新常用漢字 新聞協会は漢字をいじくりまわして、何がしたいのか?

Jun. 7th, 2009 | 10:50 am




新聞協会という団体が、「 「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」への意見」などという文書(PDF)を、公表している。それが、またおそろしい内容なのだ。

新常用漢字表においては、一点しんにゅうで統一されている現行常用漢字の中に「、」など二点しんにゅうの文字が混在することになります。食偏の「餅、餌」なども同様です。漢字を教える場合、「これは二点しんにゅうで掲げられているけれど、書くときは一点しんにゅうでよい」というのは分かりにくく、「それならなぜこの字は一点しんにゅうにしないのか」という疑問が出るのは当然です。
( 新聞協会、「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」への意見、p. 3)
 

何を言っているのか。手書きの楷書体などでは、確かに之繞の点は1点で書くのが普通だ。しかし、印刷書体の明朝体ではそれは2点で表現するのが伝統である。それを無理矢理に変えたのは当の常用漢字だったではないか。

「それならなぜこの字は一点しんにゅうにしないのか」だと? よくもこのような破廉恥なことが言えたものだ。漢字文化に対する傲岸不遜この上ない。それならば、こう言おうではないか!

なぜこれらの文字はみんな二点之繞にしないのか? と。
 
誰が、二点のものを勝手に、恣意的に一点にしたのだ? 国語審議会ではないか?

手書き文字は一点で表記するのが慣習だが、印刷書体の明朝体では二点で表現するのが普通である。そもそも、不統一を導入したのは、『常用漢字表』である。『常用漢字表』では、印刷書体である明朝体を例示字形に用いているにもかかわらず、之繞の点は一点にしてしまった。愚かな失策である。

手書きでは一点で之繞を表記するが、印刷書体の明朝体ではそれは2点で表記される。このことを認識することは、漢字の具体的な表現形態の歴史的・伝統的な多様性を認識することであり、きわめて重要である。このことを無視することはできない。当然、漢字教育は、そのような漢字のもつ文化を正しく教えなければ意味がない。教師の「教えやすさ」(?)だけのために、恣意的に歴史をねじ曲げた漢字の形を教えるような教育は、ナンセンスだ!

いや、ナンセンス以下だろう。歴史と文化に対する脅威である。
(歴史や文化を客観的に理解した上で、新しい価値観や変革の必要性を訴えることは悪くはない。創造的破壊はありうる。しかし、歴史や文化をはじめからねじ曲げて教えようとするのは愚かであろう)。

新聞協会は漢字をいじくりまわして、何がしたいのか? それを先に述べる必要があるだろう。

ところで、新聞協会のwebサイトには、新聞協会の意見を述べた文書は公表しているが、その文書中にある「4.付帯意見」が、「なお、新聞協会加盟社には独自の見解を持つ社もありますので、付帯意見として添付します」としている、「付帯意見」なるものを公表していない。これは、新聞協会の加盟団体である新聞会社にとって、不公平ではないか。おそらく、新聞協会が文化庁の意見募集に対して提出し公表した「 「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」への意見」とは異なる見解を述べた新聞社が存在したに違いない。それを、新聞協会は、「添付します」と述べて文化庁には提出したけれども、それを公表していないのだ。ことになる。少数意見があったとしても外部には隠蔽し、新聞協会の公式見解だけを、広く広報するということなのか? もし、加盟各社がその統制を明示的か暗黙の内に許容しているとするなら、それは一種の思想的共謀(あるいはナレアイ)といえはしないか。 それによって、もし万一、各社の『新常用漢字表(仮称)』に関する報道内容が影響を受けることがあったとすれば、一種の情報操作につながるおそれがありはしまいか。

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絵文字の議論、あら楽し

Jun. 6th, 2009 | 09:23 am



絵文字が開いてしまった「パンドラの箱」第4回--絵文字が引き起こしたUnicode-MLの“祭り”という記事を読むと、Googleによる絵文字のUnicodeへの提案が議論を呼んでいるらしい。

絵文字というのが目新しかったのだろうが、不毛な議論に思える。複数の私用コードの集合として運用されてきた文字群があって、それなりに社会的な広がりをもって使用されるようになってくると、それら相互の情報交換を円滑に行うために、それらに標準的な文字コードを割り当てようとするのは当たり前だろう。ラウンドトリップにおける情報の損失を低減する方法として有効だ。

目的が既存の絵文字と互換な情報交換と相互運用性にあるなら、それに含まれる個々の絵文字の形や内容に関する議論は、はじめから、あまり意味がない。

詳細に関する議論は必要だが、標準化すべきか否かという点については、それが目的とする情報交換の有用性とニーズだけを議論すればよい。絵文字だから駄目だとか、国旗は駄目だとか、そういう議論はナンセンスだ。

上の記事が、「なぜ絵文字のような特定の国に強く依存するレパートリを、国際規格にそっくり収録できると思ってしまったのか?」と書いているが、漢字だってソースコードセパレーションしているではないか。つまり、各国での利用を目的としているのだ。その上で、国際的な相互運用をも可能にしているのが、Unicodeだろう。絵文字が日本の携帯電話キャリアーのものだからといって、そのユーザーがかなり莫大な数にのぼることも明々白々。なぜ、文字コードを利用して相互交換できるようにしてはいけないのか。

「書画同源」という趙孟頫(1254–1322)の言葉は意味深い。文字と絵との区別は、その定型化と簡略化の程度、社会的な普及と安定性の程度によるものにすぎず、連続体である。社会的に利用される絵が存在すれば、文字に近い利用形態に有用性が生まれてくるのは避けられない。

「絵文字は『色と動き』を持っており、それらを符号化の対象としない文字コードの技術で互換を目指すのはむずかしい」とも書いているが、色と動きの属性そのものの情報交換がなぜ絶対に必要なのか。文字コードは抽象化された形態を指示しているのではなかったのか。ならば、色と動きを実装上の課題とすることも可能だろう。

また、上記の記事中、「つまり絵文字をめぐるGoogle提案は、じつのところGoogleという企業の社風を抜きには考えられないように思えるのです」と書いているが、なぜ、「抜きにしては考えられない」のか、合理的な根拠に欠ける。想像力のある主観的なコメントとしては興味深いが、牽強付会ではないか。

むしろ、そういう観点からいえば、Googleは論争を呼ぶさまざまな新しい提案を行い、新しいビジネスを積極的に開拓しようと努力しているように見える。個別の問題点については、冷静に議論を行うべきだが、彼らの進取の精神とバイタリティ自体は、賞賛に値する。

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新常用漢字 之繞の1点2点についてのナンセンスな議論

May. 21st, 2009 | 10:48 pm



『新常用漢字(仮称)』に追加される印刷標準字体について、その之繞を従来の常用漢字の1点の形に統一すべきだという意見をしばしば聞く。教育関係者のあいだにその考えが多いらしい。たしかに、「統一されている」ことの利点がないわけではないが、だから1点に統一すべきだという主張は、論理の飛躍した暴論である。完全なナンセンスだと思う。その理由は以下のとおり。
  • 統一されているのが良いなら、なぜ之繞を含む文字のすべてを2点に統一するオプションも検討しないのか。
    • そもそも、印刷書体に明朝体を使う以上、2点の方が歴史的に正しい(あるいは多数派だ)。1点の之繞の方が珍奇なデザインだ。
    • だから、表外漢字字体表では2点にしたのではないか。
    • それは、表内と表外との違いだ、というのは詭弁にすぎない。
      • 統一した方がよい、という論理なら、なぜ表外漢字字体表を1点に統一しなかったのか。表内と表外を意図的に違わせる根拠はない。
      • 表外漢字字体表を作ったときに、なぜ常用漢字改定の際の問題点を考慮しなかったのか。
      • そもそも、1点と2点の差異は、手書きの文字と印刷書体との様式上の差異であって、常用漢字が1点、表外漢字は2点などという考え自体が後付けに過ぎない。
      • 表外漢字を手書きするときに、2点で書くことはまずしない。歴史的な楷書などもほぼ1点を採用している。
      • 他方、明朝体の場合には、歴史的には2点が正統だ。それをわざわざ1点にする合理的根拠がない。
  • 漢字教育というものには、手書きの文字と印刷書体における1点と2点との差異は、文字を読む上では捨象できること、手書きの場合には1点で書くこと、が含まれていて当然なのだ。
    • それが、面倒だから1点に統一すべきだ、というなら、漢字教育の根本が失われてしまう。漢字の歴史的、文化的な側面の軽視につながり、恣意的に漢字の形を変えたものを、あたかも正統的な形として教えてしまうことにもつながる。
教育機関などで学習のレベルに応じて、一定の範囲内の漢字を選定して教えることは必要なことだ。そのような分野では一定の漢字制限があってしかるべきだろう。しかし、それは単に教えやすさ、覚えやすさだけを追求するものであってはならない。漢字の歴史的・文化的な連続性を無視したのでは、そもそも漢字を教えることにならない。


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『地活な人々』を読む

Apr. 18th, 2009 | 03:01 pm



『地活な人々』(三井不動産S&E総合研究所編 オンブック刊)という本を読んだ。「地活」という略称にはとまどったが、「地域活性化」のことらしい。地方で、ビジネス、産業、映画、芸術、さまざまな分野で活躍している人々を取り上げて、地域活性化の可能性について展望する。数多くの事例が取り上げられているので、ここで個々について述べることはできないが、都市と地方のあり方を考えさせてくれる内容になっている。ここでは、そこで概論的な記事として収められている「超高層ビルのあなたの空遠く―中央と地方との存在意義について」(橘川幸夫著)について、感想を述べたい。

地方が「都市化」(p. 212)した結果として、「都市」となる。そして、それがさらに加速した結果、「グローバリズム」(p. 213)が生まれた。しかしその結果「成功した若い人たちは一様に宇宙ビジネスに関心を持つ。なにごとも、行きすぎた方法論は滑稽な悲劇になる」(p. 214)という。そして、「今、問われているのは、村か都市かという二者択一ではなく、村の役割と意味、都市の役割と意味を再吟味して、それを融合することだと思う」(p. 214)というのだ。

ここで、すこし疑問に思ったのは、果たしてわれわれは「村か都市かという二者択一」をしているのか、その選択権を有しているのか、という点だ。ある者にとっては、選択の余地無く村から都市へ移動しなければならない状況が一方であり、他方で、その二者を選択する余裕のある者でさえ、都市を選択することに大きなインセンティブが常に与えられている。それが現代社会ではないのか。そこに本来の意味での「二者択一」は存在しないのではないか。

もし、「二者択一」のありえない状況であれば、それを否定して「村の役割と意味、都市の役割と意味を再吟味して、それを融合すること」が生み出す結果は、良かれ悪しかれ、都市化の異なる一形態にすぎなくなるのではないか。

また、「村には、それぞれの地域の特性を活かした歴史と文化がある」(p. 214)という。そして「都市には、そうした文化がない代わりに因習に縛られない自由な発想と、各地の村を水平に集約する情報センターとしての機能がある」(p. 214)という。

はたして、そうだろうか。

村にある「歴史と文化」をその村の「因習」から切り離して、知識として、記録として、あるいは何らかのアクセス可能な情報や商品に作りかえることができたとしよう。それは、はたして元々あった「歴史と文化」を維持し続けることができるだろうか。因習は伝統であり、生活様式でもある。思考様式でもある。美意識でもある。否定的に形容する場合に(悪しき)「因習」と呼ぶだけのことだ。「因習」内部のある要素を否定的に評価する観点と、それを「歴史と文化」として肯定的に評価する観点との両者を、一体、どう折り合いを付ければ良いのか。そこに、ある一定の価値意識が働いたとして、それがもし、「集約する情報センターとしての機能」をもつ都市の立場でなされるのだとしたら、それは、「因習に縛られない」都市の立場にとって好ましいと思われるような「歴史と文化」を展示する博物館を作るのと、結局同じになってしまわないか。

「因習に縛られない自由な発想」を尊重することは、もちろん、悪いことではない。しかし、それは近代の論理である。近代の認識方法である。その延長線上には、やはり「宇宙ビジネス」があることを念頭に置く必要があると思う。

ところで、わたしは成功者の「宇宙ビジネス」が悪いことだとは思わない。技術が進歩したとはいえ、宇宙飛行は常に最大の危険をともなう。富者が大きなリスクをとることに驚く必要があるだろうか。自由にすればいい。それによって科学技術の発展に貢献すれば悪いことではない。

この記事の結論として、「全国各地にチェーンストアやフランチャイズ店舗が進出して、駅前はどこも同じような顔になった。そのことによって、物質的には豊かな社会が成立したが、画一化という味気なさも私たちは知っている。これからの社会テーマは「豊かで味わい深い生活」だと思う。そのためには文明としての都市機能と、文化としての村の風土との融合が重要になってくる。都市が一方的に地域の特色を塗り替えてしまうのではなく、地域の独自性を尊重した、新しい発想のチェーンストア理論が生まれてくるべきだろう」(p. 215)と述べている。

画一化は、必ずしも20世紀的な工業化の結果だけで起こるわけではない。例えば、アメリカ合衆国建国の父たちのように、日本人は個人的自由に最大限の価値を見いだしてきただろうか、個々人が常に自由の尊さを意識してきただろうか。そもそも個人的自由はわが国の「歴史と文化」の一部になっているだろうか。何が「豊かで味わい深い」のか。それは、個々人が判断するべきだ。そうでなければ、型にはまった一定の「豊かで味わい深い」価値観を押しつけることになるだけで、そのこと自体が画一化になってしまう。画一化を回避する最短の方法は、個人の自由を拡大することであり、各人の意識と感覚が画一化しないようにすることだ。個人の意識が重要となる。

しかし、本書の冒頭にでてくる「政府にも企業にも頼れない」(p. 7)のはまったくそのとおりだ。国民の財貨である税金を湯水のようにばらまいては赤字国債を量産し続け、それでも首相が笑顔を振りまいていられるような政府、そんなものが頼りになるわけがない。本書で紹介されているような、建設的な努力をされている個々人の力によってこそ、未来がひらけるに違いない。

本書がその重要性を説く「地域活性化」が、日本人の内に、個人の自由を尊重する精神を育むものであってほしいと思った。

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新常用漢字 飛翔体と常用漢字

Apr. 7th, 2009 | 10:03 pm



小形氏の文字関連のブログ「もじのなまえ」で、北朝鮮が打ち上げたミサイル(またはロケット)を政府機関が「飛翔体」と公表していることが議論になっている。「翔」の字は常用漢字ではなく、あえて専門用語を用いる必要があるのか、むしろ「飛行体」などに書き換えた方が良かったのではないか、あるいは、その文字は仮名表記にすべきではなかったか、というのが主旨だ。

しかし、その記事の追記を読むと、「飛翔体」が飛行機ではないロケットやミサイルなどを意味する、航空関係の専門用語だということらしい。であれば、専門用語をあえて用いる必要があるかどうか、ということが論点となるだろう。公文書でも、専門用語については常用漢字以外の文字の使用も行われているからだ(「公用文における漢字使用等について(通知)」)。

これについては、二つの異なる意見がありうる。

1. 専門家にも通じるように専門用語を用いるべき。また外国語との対応がはっきりしている専門用語の場合には、外交上の意思疎通を図るため、特に書き換えずにその専門用語の訳語を用いるべき。

2. 専門家だけを対象にせず、一般国民に広く開示する場合には、意味が理解できなければならず、専門用語はできるだけより理解しやすい代替の語句に置き換えるべきだ。

専門家を相手に発せられる文書であれば、1.で問題はない。しかし、一般国民を対象にする場合には、2.が有効となるに違いない。なぜなら、1.の場合には、意味が一般読者に正確に理解されない可能性があるからだ。

また、文字について考えてみると、公用文などの政府文書で用いる文字種を標準化して限定することは情報交換上必要な要件となるので、常用漢字を用いることはその点については効果がある(常用漢字表の範囲や字体が妥当かどうかは別として)。しかし、その「効果」は、この場合の公用文など、用途が明らかに特定されている場合に限られる。

現在の常用漢字表の前文が「法令,公用文書,新聞,雑誌,放送など,一般の社会生活において,現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものである」というように、茫漠とした広大な範囲に「目安」として適用できるような一般性を一つの漢字表が存在しうるかどうかは、かなり疑問だ。

むしろ、法令や公用文書などは、使用できる漢字をより狭い範囲(例えば教育漢字などに)限定し、逆に、常用漢字の「目安」の役割の対象から「新聞,雑誌,放送など,一般の社会生活において,現代の国語を書き表す場合の漢字使用」を除外してしまった方が、個人書き言葉、それぞれの新聞社や出版社の文字表記に制限的な影響を与えず、他方で公用文をより平易に理解しやすくする上で有効ではないか。政府が自らの漢字使用を制限するのは、効率と情報交換上、大いに結構なことかもしれないが、それを「目安」として国民に提示することに合理性があるのだろうか。


その他の常用漢字に関する記事:


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新常用漢字 「鷹」を新常用漢字に入れるという意見

Apr. 2nd, 2009 | 10:17 pm




「新常用漢字に「鷹」入れて…東京・三鷹など4市町が意見書」という記事が目に付いた。それによると、三鷹市など4市町が「鷹」の文字を新常用漢字表(仮称)に追加すべきとの意見書を文化庁に提出したとのこと。その記事によると、『「(三鷹)市の意見書では「『能ある鷹は爪を隠す』など、鷹の字は古来から多くのことわざや格言に使われ、文化的、教育的にも重要。誰でも読み書きできる漢字であるべき」と主張』とある。新常用漢字表(仮称)の最初の素案には含まれていたが、後になって削除されたからという。

このような要望をいちいち聞いていたら、例えば、印刷標準字体に入っている「燕」や「鶯」も入れたらどうかなど、それに類するいろいろな文字の追加要求の「意見」を、どんどん受け入れなければならなくなる。常用漢字表に含まれる文字の数は何倍にも膨れあがるに違いない。

常用漢字だけが「文化的、教育的にも重要」な漢字ではない。常用漢字は文化的、教育的に重要な漢字を規定するものでも限定するものでもない。また、「鷹」の字が、「誰でも読み書きできる漢字であるべき」かどうかは、必ずしも一般的には明かではない。三鷹市の住民にとっては重要に違いないが、常用漢字表に入っていないからといって、三鷹市の住民が「鷹」の字が読み書きできなくなっているわけではあるまい。むしろ、常用漢字であろうがなかろうが、三鷹市の住民にとっては、読み書きできて当然の文字となっているはずではないか。

全国の都道府県市町村が同じような要求をし始めたら、どのようなことになるか。すべての要求を受け入れることが不可能なのは当然。さらに、それらの要求の一部だけを採用したとしたら、その選択が恣意的な裁量ではないと断言することが、はたして可能だろうか。

また、今回の新常用漢字表(仮称)に関しては、そもそも常用漢字表を改正すること、つまり文字を追加したり削除したりすること自体の妥当性についてももっと多くの議論が必要だったと考える。見切り発車的に既定路線を突き進んできた点にも問題があろう(例えば、そのために、しんにゅうの点の数などという表層的な事柄について、激しくも不毛な議論を惹起してしまった)。さらに言えば、現代における常用漢字表の必要性自体についても、もっと本質的な問いを発し、真摯な検討がなされるべきだった。

そのように考えると、「鷹」の字を足してください、などと自分たちの都合をそのまま意見書に出してくるというのは、ちと安易に過ぎないか。現在の状況は、そのようなことを言っていられる場合なのだろうか。


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新常用漢字 「しんにゅうを1点に統一する」、なんと愚かなことを言うのか

Mar. 31st, 2009 | 08:04 am




朝日新聞の2009年3月31日付p. 17の記事(東京13版による)は、見出しにし「『「んにゅう』に関心集中 1点と2点なぜ統一できないの」というもので、26日に行われた国語施策懇談会の内容を報告し、論評している。

この記事の末尾に次のようにある。

「日本新聞協会などから要望が寄せられている。同協会は『常用漢字に準じた易しい字体を掲げる方が国民にとって分かりやすい』として、しんにゅうは1点に統一するよう求めている。」
 
これでは、日本の新聞社はみんな、「しんにゅうは1点に統一するよう求めている」かのように思えてくるではないか。これは、一種の暗示的な誘導である。

前回の記事で述べたように、最近の小形氏のブログへのTaro氏のコメントによれば、新聞協会のこの「意見」は、必ずしも日本の新聞社の総意というわけではないらしい。きっぱりと、正反対の意見を社説などで述べている新聞社もある(以下参照)。

南日本新聞は、「異字体は容認の方向で」
山陰中央新報は、、「字体の混在は認めるべき」

つまり、日本の新聞社がみな、「しんにゅうは1点に統一するよう求めている、わけではまったくない、

この記事は、記事を書いている主体である朝日新聞社の意見は述べていない、ただ新聞協会の意見を紹介しているだけである。新聞社としての主体的な判断できないのか。それとも、自社の考えを述べたくないのか。新聞協会の意見が、日本の新聞社の総意でないことがはっきりした以上、自社の見解を述べずに避けるのは、おかしくはないか。

とにかく、「しんにゅうを1点に統一する」などというのは、愚かな暴論である。規範的な漢字の形が、それがどの文字表に属するかによって、ころころ変わってどうするのか。文化審議会の前身の国語審議会が「印刷標準字体」を決めた時の字体の判断は、間違っていた、とでもいうのだろうか。間違ってはいない。明朝体で表現する場合には、しんにゅうは2点の方が伝統的で標準的な形なのだ。

もし本当に統一するというなら、しんにゅうは明朝体では2点に統一すべきだろう。手書きの場合は1点で書くのだ。その使い分けが「易し」くないから、どちらかに統一せよ、などというのは、手書きと活版印刷における字体の異なる成立過程を無視した安易な主張である。手書きと印刷書体の字体を正しく見分けられ、使い分けられることが、漢字利用者には要求される。それによって、文化の多様性と連続性を維持することができるのである。

簡略体が悪いとは言わない。大昔から簡略体の漢字は用いられてきた。同音異字の書き換えも便宜的に行われただろう。しかし、それを常用漢字表などの形で規範に格上げしてしまうことが、いかに馬鹿げたことか。そのことは、今回の1点と2点の議論で明らかになったはずではないか。

良く考えもせずに、手書きの当用漢字で1点が採用されていた文字を、常用漢字制定に際して明朝体で例示するとき、2点にせずにそのまま1点にしたのが、間違いだったのだ。こんな、くだらないケアレスミスで、一国の文字の形の規範がふらふらする。日本の文化はもはや終末期にあるのではないか。

新聞社も、しっかりと良く調べて、自分の頭で考え、自分の考えを述べないといけない。全国紙の記者は、上記のような地方紙の真面目な記者を見習うべきだろう。


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常用漢字・新常用漢字について、あれやこれや考えたこと

Mar. 29th, 2009 | 08:57 pm
music: Piano Sonata No. 1, in F minor, Op. 6, Scriabin



今まで、常用漢字や現在審議中の新常用漢字について、あれやこれやと考えた。以下のとおりである。
現在既に「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」という文書が文化庁から公開されている段階なので、文字の種類や字体については、以前の議事録を参考にして書いた、上記のコメントの内、後の三つについては内容が不正確になっているかもしれない。ただし、常用漢字に関する全体的な考え方については、上記のコメントの内容が私の考え方であって、それには変化はない。

『新常用漢字(仮称)』の今後の進捗を見ながら、今後も必要に応じて意見を表明したいと考えていきたい。


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新聞協会の「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」への意見

Mar. 27th, 2009 | 10:31 pm
music: Goldberg Variations, Bach.



新聞協会という団体が、『「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」への意見』というコメントを発表している。なかなか、気になる箇所の多い文章だ。

当用漢字制定以来、国民の言語生活上、新聞・通信・放送の表記と国語施策―特に教科書―の表記があまり食い違わないことが望ましいとして、国語施策に協力してきました。それはやさしく分かりやすい表記を目指す報道界の方針と国語施策の方向がおおむね一致したからです。
(p. 1、『「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」への意見』 社団法人日本新聞協会編集委員会より引用)

つまり、新聞協会が考える「やさしく分かりやすい表記」というのは、当用漢字の性格に連なるもの、というわけだ。それは、字体の簡略化だ。いや、もう少し正確に言うと、簡略化した字体を、恣意的・強制的に文字の形の規範にしてしまうことだろう。

(…)新聞・放送と国の常用漢字表がそのまま一致すべきものでもありませんが、マスメディアの使用文字は「一般の社会生活において」国民の目に最も触れやすいものですから、その影響を考慮し、新聞協会として「新常用漢字表」に関する試案について意見を申し述べる次第です。
(p. 1、『「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」への意見』 社団法人日本新聞協会編集委員会より引用)

新聞のようなマスメディアが大きく興隆したのは19世紀から20世紀にかけてであった。しかし、現代では、情報伝達の手段は多様化しており、必ずしもマスメディアが「国民の目に最も触れやすいもの」とは言えない。当用漢字の方向性の継承を持ち出すことと同様、彼らの現状認識はかなり時代錯誤的だ。

新常用漢字表においては、一点しんにゅうで統一されている現行常用漢字の中に「遜、遡」など二点しんにゅうの文字が混在することになります。食偏の「餅、餌」なども同様です。漢字を教える場合、「これは二点しんにゅうで掲げられているけれど、書くときは一点しんにゅうでよい」というのは分かりにくく、「それならなぜこの字は一点しんにゅうにしないのか」という疑問が出るのは当然です。
(p. 3、『「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」への意見』 社団法人日本新聞協会編集委員会より引用)

なんと表面的で、無意味なコメントであろうか。常用漢字表は印刷書体(ふつうは明朝体)で文字の形が例示される。その原則を変えないのであれば、本来、明朝体のしんにゅうの形としては二点が正しい。むしろ、表内で統一すべきだというのであれば、二点に統一すべきなのだ。しんにゅうを一点にしたのは、性急な字体の簡略化運動の形式的な残滓にすぎない。もし、一点に統一したら、同じ文化庁の旧国語審議会(その後身が現在新常用漢字を検討している文化審議会)が決めた印刷標準字体の方針と矛盾することになるではないか。今となっては、二点に統一するのが困難だから、二点と一点の混在が避けられないのである。あるべき文字の形が、どの文字表に帰属するかによって、ころころと変わるべきだというのは、あまりにも便宜的な考え方だろう。それは、文字の形に対する恣意的な介入でしかない。

手書きの文字と印刷書体とで文字の形が異なるのは、歴史的・文化的・技術的な諸条件から避けることはできない。それが漢字という文字の多様な表現形式の広がりなのであり、手書きであれ印刷書体であれ、同じ文字を同じ文字として認識できる能力をもつことは漢字利用者にとって不可欠なだけでなく、それによって漢字という書記体系の内に築かれてきた豊かな文化を味わうことも可能になる。それは、漢字を通して、文化の多様性とその歴史的な連続性を知ることができる機会でもある。一点と二点が混ざるのはおかしいから、一点にしてしまえ、などというのは、おそるべき思考の軽薄さ、浅さを露呈してしまっているように思う。
 
新常用漢字表においても、当用漢字字体表以来、常用漢字表に受け継がれてきた「字体簡明化」の理念(表内字は略字体とし、手書き文字と印刷文字をできるだけ一致させること)を維持し、表内の字体の整合性を優先すべきであると考えます。
(p. 4、『「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」への意見』 社団法人日本新聞協会編集委員会より引用)

「字体簡明化」の理念などという、またもや信じられないような理念があったとは。「手書きの文字と印刷文字をできるだけ一致させる」というなら、手書きの文字にも明朝体のウロコ(水平画線の端末部の三角形の突起)を付けてみてはどうか。さぞ、斬新な書風になるだろう。どうやって、手書きの文字が明朝体やゴシック体になりえるというのか。技術的に不可能なだけではなく、もし強引にそんなことをやったら、歴史的な文字の形状の成り立ちを完全に破壊することになってしまう。

過去の字体の簡略化運動の残りかすのような中身のない「理念」をいまだに堂々と掲げるとは、時代錯誤としか言えない。簡略化しても、簡略化以前の文字は必要とされる。結局両方必要になるだけの結果に終わる。さらに悪いことに、簡略字体は、単純に通用字体として放任・許容されるのではなく、規範的な文字に格上げされてしまうものだから、大変な混乱が生じてしまう。「芸」をゲイとしてしまったり、「障碍者」は「障害者」へ、「編輯」は「編集」へと、恣意的に、政府が指導して書き換えさせたりする。いや、字体の簡略化や同音異字での書き換えそのものに問題があるのではない。昔からいくらでもそういう事例はある。個人が自由に簡略化して文字を書いて悪い理由などどこにもありはしない。自由である。

問題なのは、それを政府が勝手に文字の規範にしてしまうこと。規範にしたものを、教育機関が半強制的に国民に押しつけ、それを「マスメディア」がそのまま無批判に宣伝して世の中に氾濫させてしまうこと、が問題なのである。19世紀末から20世紀前半頃までの愚かな「近代」主義運動の熱病にかかって、横着に、傲慢に、文字の形やその用法をいじってしまった愚行、文化と歴史に対する冒瀆について、もっと真剣に批判的に考えなければいけない。しかし、この新聞協会の意見書から、そのような真剣さ、思慮の深さが感じられないのは、残念至極。

そもそも報道機関がなぜ、政府に「協力」しなければならないのか。ジャーナリストを擁する報道機関の団体が軽々しく明言すべきことではないと思うのだが。

補足: ところで、最近の小形氏のブログへのTaro氏のコメントによれば、新聞協会のこの「意見」は、必ずしも日本の新聞社の総意というわけではないらしい。きっぱりと、正反対の意見を社説などで述べている新聞社もあるようだ(以下参照)。

南日本新聞は、「異字体は容認の方向で」
山陰中央新報は、、「字体の混在は認めるべき」

なぜか、新聞協会の「意見」はそのような、個別新聞社の意見を一切公表していない(ただし、新聞社個別の「付帯意見」が存在していることには言及しているが)。つまり、新聞社の新常用漢字に対する意見は一様ではない、のである。業界団体の「意見」だからといって、それを、その業界の総意として単純に理解することはできなさそうだ。
 

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今さら有識者会合?

Mar. 25th, 2009 | 09:26 pm

日本政府のインターネット・テレビとやらのサイトに、次のようなものがあった。

経済危機克服のための「有識者会合」(エコノミスト・学識経験者)-平成21年3月16日

ここで議論されているような内容は、去年の秋の段階で考えていて当然のことばかりで、現時点で会合を開いて考えているようでは、何の役にも立たないのは明かだろう。このような会議を開いている暇があったら、有効な政策を実行することに専念して欲しいものだ。

では、もし有効な政策があったとして、それを現在の政府が実行できるだろうか。できない。なぜなら、政府機構を縮小削減し、規制緩和を徹底し、他国と自由貿易協定を結び、条件付きで移民を拡大し、最低賃金を引き下げることで失業率を緩和し、独禁法を廃止し、法人税・所得税・相続税等の税率を大胆に引き下げることによって、市場経済を活性化し、個人の自由な活動を促すことが必要となるからだが、それは、既得権を維持しようとする政・財・官・労の利益を害することになるからである。

今になって政府に有識者会合をやってもらって、首相にお勉強をしてもらって、そんな政府に依存しているようでは、何の解決にも改善にもならない。必要なのは、政府を縮小することである。最小化することである。それによって、将来への負債・国民への負担を軽減することが必要なのである。政府に期待するのはまったく愚かなことである。むしろ政府から金を取り返し、政府をマッチ箱程度の活動領域に閉じこめなければならない。



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国策でない捜査はありえますか

Mar. 8th, 2009 | 09:18 pm



民主党の小沢氏の秘書が逮捕された件で、同氏が検察の捜査を「国策捜査」と批判したことに対して、与党や検察側は反発しているようだ。反発している人々は、どういう認識をしているのだろうか。小沢氏は当たり前のことを言っているだけではないか。

検察は政府機関である。あらゆる捜査は国策で行われているのだ。国民から合法的に収奪した税金を使って行われているのだ。国策で行われない捜査があったら、教えて欲しいものだ。

国策だから、政府の恣意によって、裁量によって行われる。
日歯連ヤミ献金事件が典型的である。村岡兼造氏だけを起訴して、他は起訴しなかった。恣意的・裁量的な国策”不”捜査の典型だろう。

小沢氏の秘書がもし政治資金規正法に違反していれば、政治資金規正法が廃止されない限り、それによって裁かれること自体は当然なのだが、同様の迂回献金問題で起訴されていない政治家が少なくないことを考えると、小沢氏の秘書の逮捕に恣意的・政治的な背景があったと想像しても不自然ではない。

例えば、警察が泥棒を捕まえて検察が起訴したとしよう。裁判で有罪になって、事件が決着したとしよう。被害者は喜ぶだろう。警察も検察も「国民の期待に応えられた」と喜ぶに違いない。この場合でも、捜査は国策によって行われているのだ。たまたまその結果が被害者や関係者を喜ばせただけのことである。警察・検察にしてみれば起訴して有罪を勝ち取れなかったり、冤罪だとわかったら、何のために税金を払っているのか、という批判を浴びることになるのだから、思い通りに事が運んだことになる。

同じように、思い通りに事を運んで、時には起訴しなかったり、時にはいろいろ考えて起訴してみたり、警察がでっち上げたり、野党政治家の秘書を逮捕したりするだけのことなのだ。すべては恣意的、裁量的であって、それが国策なのだ。

この「国策捜査」というのは、常に政権政党に得になるように行われるのではない。政府という組織は、政府自体を防衛しようとする。その既得権益を防衛しようとする。そして、その権力を拡大しようとする。常にそれに反しないことが「国策」にとっては重要となる。それを邪魔する者とは対峙せざるを得なくなる。

また、政治資金規正法は、政治団体(または政党)を介することで、寄付を行う者と政治家との利害関係を遮断しようとしているが、それ自体が非合理である。寄付を行う者が存在し、寄付を受ける者が存在する現実があった場合に、その現実を寄付の受け手が認識することが、即、政治資金規正法に抵触する可能性を生むことになる。つまり、賄賂が立証されていないのに、犯罪が成立してしまうという、戦慄すべきことが起こる。さらに政治資金規正法は、寄付を行う個人や企業の思想・表現の自由を明かに侵害している。賄賂が成立しているわけでもないのに、寄付という思想表現が行えない場合があるからである。

なぜそんな法律が必要となるのか。政府が公共事業を行うからだ。公共事業など政府が国費で事業を行うことで、政府・官僚・政治家と私企業との癒着が生じるからだ。解決策は、大胆な減税を行い、国民の貴重な財産と労働の成果を政府から奪還し、それによって政府の事業を徹底的に最小化することだ。

今見ていることはみな、政府の自作自演であって、国家的規模で行われるマッチポンプなのではないか。

国債に依存して歳出を肥大化させ、政府の権力と事業を拡大させ、それに群がる私企業との癒着を生みだし、それに対して能力の範囲内で恣意的に政治資金規正法を適用して摘発してみせる。それによって、あたかも検察は国民のため、正義のために働いているように見える。しかし、その目的は、政府の権力と事業の拡大をはかり、大きな政府とそこに巣くう自らを保護し、その力を増強することに他ならないのではないか。

このマッチポンプ劇の参加者は、政府だけではないだろう。独占禁止法の適用除外と日刊新聞法(日刊新聞紙の発行を目的とする株式会社の株式の譲渡の制限等に関する法律)で守られている新聞社もしかり。

法人税、所得税の廃止を含む大胆な減税によって、小さな政府を樹立する(あるいは将来的には政府機関を完全民営化する)ことが、国民を政府の統制と収奪から解放する道に違いない。それが実現する時には、政治資金規正法など完全に不必要になっているだろう。




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日本経済 政治 もっと根本的な解決策が必要だ

Feb. 21st, 2009 | 07:32 pm



経済成長率が低下している。また、潜在成長率は1%代前半と低く、さらに低下傾向にある。このことは、日本経済の将来的展望がきわめて暗いことを示している。潜在成長率を引き上げるためには、生産性の向上、技術革新と人的資源の有効活用が不可欠となる。

残念ながら、最近の中川前財務大臣のローマG7での愚行や、巨大な負債である「かんぽの宿」の売却が(種々の不手際と泥沼の政治的闘争のおかげで)遅延していること、等々。自民党政権の危機意識の希薄さは、信じられないほどである。

もはや通常の方法で日本経済に明るい展望をもたらすことは不可能と考える。

そこで、根本的な、政治的・経済的・社会的な措置を、以下に提案したい。
これは、明治維新や戦後の変革と同等かそれ以上の大変革となるにちがいない。日本はまさに大変革を必要としている。
  • 国家公務員法および各省庁の設置法等、必要な法律を廃止、または大幅に改訂して、行政機関を縮小し、暫定政府機関として統合する。
  • 暫定政府機関設置後、8年以内に国会その他のあらゆる立法・行政・司法機関を廃止できるよう、憲法を改正する。
  • 暫定政府機関は、暫定政府機関の内部の各組織を8年間で完全民営化するための計画を策定し、段階的に実行に移す。
  • 所得税は暫定政府機関設立1年後までに累進性をなくしてフラットにし、4年後までに所得税そのものを廃止する。
  • 国有地など政府所有の資産および財貨は、暫定政府機関設立8年後までにすべて民間に払い下げるか、全国民に譲渡あるいは返還する。
  • 間接税その他の税は、簡素化して少数に統合して8年間で、国債償還および債務の履行にあてるものを除きほぼすべて全廃する。
  • 国債を含む政府の債務の履行は、暫定政府機関設置8年後まで継続する。ただし、当事者間の契約によって民営化後も債務を継承可能な場合もある。
  • 最終的に国家の歳入・歳出をゼロにし、国家公務員の数をゼロにする。
  • 8年後には、あらゆる法律・条例などすべての法的制度を廃止すること。
  • 従って、既存の法律・条例などを根拠とした、政府に対する及び政府による一切の請求権は喪失する。ただし、当事者間の契約によって民営化後も当事者間で請求権の継続が可能な場合もある。
  • 憲法もまた、政府の消滅と同時にその歴史的使命を終える。
  • それまで政府が行ってきた業務は廃止されるか、民営化される。
これによって、段階的に、租税と過大な政府の債務から国民は解放されることになり、また新たなビジネス領域の拡大と生産性の向上が可能となり、最大の経済効果が得られる。これは、きわめて根本的なリバタリアン的変革である。

現在日本が抱えている状況は、このような大胆な変革を必要とするほどに深刻なのである。

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村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ

Feb. 19th, 2009 | 09:51 pm



作家の村上春樹がイスラエルのエルサレム賞の授賞式で行ったスピーチは、実に興味深い。感動的ですらある。

“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.”
Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.

高く、堅い壁に、卵はぶつかっては壊れる。だから、つねに私は卵の側に立つ。
そう、いかに壁が正しかろうが、卵が間違っていようが、やはり私は卵の側に立つ。

ここでの比喩において、卵は生身の人である。壁は国家であり、体制であり、軍隊であり、コミュニティーであり、制度であり、既成概念である。

壁の右側にも、左側にも、内側にも外側にも、たくさんの卵がいる。壁によりかかって依存する卵もいる。壁を支える卵もいるかもしれない。そして壁に押し潰される卵もたくさんいる。壁のどちら側にも、たくさんの卵がいる。

「卵は正しく、間違っているのは壁だ」などと言っても仕方がない。壁は判断をも支配する。壁の判断は卵の内側にまで浸食するかもしれない。だから、たとえ卵が間違っていようと、壁が正しかろうと、そんなことは度外視するのである。そして、常に押し潰されてしまう卵の側に立つのである。

I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it.
個人の魂の尊厳を表に引き出して、それに光を当てること。それが小説を書く唯一の理由である。

つまり、それぞれに異なる多様な卵のひとつづつを観察し、それぞれの存在理由を明らかにしようとする。それが村上春樹という作家の使命である、というのである。

エルサレムで言うべきことは言った、ということであろう。
 

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人事院には困ったものだ。

Feb. 14th, 2009 | 01:37 pm



今日(2009年2月14日)の朝日新聞のbe on Saturaday誌の連載コラム「読み解く」に掲載されている横田由美子氏の「官僚」という記事の冒頭に、次のようにある。

内閣人事・行政管理局の新設を盛り込んだ改革の「工程表」をめぐる反対で、すっかり抵抗勢力呼ばわりされた人事院のキャリア官僚は、「心外だ」と怒りをこうあらわにした。

「給与やポスト数、採用の決定権が内閣に移れば、公務員に不利な状況になり、若手はますます流出する。霞ヶ関の弱体化は国家の基盤を揺るがせる」
(横田由美子著、「官僚」、「読み解く」欄、be on Saturaday、2009年2月14日)

若手が流出すると、霞ヶ関の弱体化になると? どこが悪いのだろう。国家の基盤を揺るがせる? 政府の基盤は揺らぐのかも知れないが、それも必ずしも悪いことではないのでは? 徴税という名目で国民から合法的に収奪しては、負債ばかりを垂れ流しにしているのが今の政府ではないか。

若手の公務員が、そういう政府から飛び出して、民間でできることは民間で行う、何でも政府が決めたやり方でやるのではなく、多様な選択肢が国民に与えられ、競争を通して種々の公共サービスや事業が実現される。そういう分野で優秀な若手が活躍する方が、日本のためにも、国民のためにも良いのではないか。本人にとっても良いはずだ。

怒りをあらわにすべきなのは、このような政府を持った国民の方だろう。
 

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おせっかい 政府 景気対策

Feb. 2nd, 2009 | 08:06 pm



「おせっかい」と言っても、Pink Floydのアルバムの名前のことではない。政府のことである。

最近の研究によれば、いわゆるNew Deal政策は大恐慌から経済が復興するために役に立たなかったばかりか、それを悪化させ、景気後退を長引かせたとのこと。その記事で、Harold L. ColeとLee E. Ohanianは、結論としてオバマ合衆国新大統領に対して経済政策上のポイントを提案するなかで、次のように述べている。

These reforms should include very specific plans that update banking regulations and address a manufacturing sector in which several large industries -- including autos and steel -- are no longer internationally competitive. (Harold L. Cole & Lee E. Ohanian, "How Government Prolonged the Depression", The Wall Street Journal, February 2, 2009)

これらの改革は、銀行業の諸規制を改め、もはや国際的な競争力を失ったいくつかの大きな産業分野(自動車と鉄鋼を含む)を有する製造業部門に対するきわめて個別具体的な計画を含むべきである。
(Harold L. Cole & Lee E. Ohanian, "How Government Prolonged the Depression", The Wall Street Journal, February 2, 2009)

この最後の部分に関しては、高名な経済学者の理論に教えられなくても、本来誰にとっても自明のことであろう。そして、この2人の経済学者が教えることが正しければ、ニュー・ディール政策およびそれと類似のケインズ流の政策の有効性はきわめて疑わしいということがわかる。

しかし、このことですら、誰もが日常実感している事と大きく異ならないばかりか、むしろ符合していることに気付くのではないか。

誰もが薄々は気付いているのである。つまり、恐慌や大規模なバブルと景気後退の循環、景気後退の長期化、金融危機、それらの背景には、政府とそれがかかえる膨大な負債、そしてその負債の際限なき膨張、つまり政府自体の存在、があるということに。

おせっかいなのは、政府が我々の漢字使用の「めやす」を決めると称して「常用漢字」を作ったり改訂したり、などという些事にとどまらないのだ。一国の経済が、日本国民の生活が、政府のおせっかいの対象となっているのである。
  • 新しい潜在的な成長可能性のある産業分野への資源、資本、人材の移動をダイナミックに進める政策によって、生産性、国際競争力を高め、ある程度の経済成長を達成することなく、改革する力を失った成長性のない分野に融資や投資を繰り返しても、一時的な景気対策にしかならない。むしろ、それは政府への依存を生み、経済の停滞を助長することになる。景気対策が政府による市場と産業に対する有害な介入となりうる。
  • 最近の日本政府内の馬鹿げた論争、つまり3年後の消費税の値上げに言及すべきかどうか、が端的に示している。つまり、政府は強制的な徴税権の合法性をもてあそんで、国民各個人の経済生活を翻弄しているのである。その意図は明らかである。政府は莫大な負債を抱えていながら、さらに国民から合法的に徴税という名の強奪行為を繰り返し永続的に働こうとしている。あらゆる政府支出は、現在と将来の国民にとっての負債である。その負債の支払いは、合法的にしかし常に強権的、掠奪的に行われるのである。
  • 主権者であるにもかかわらず大多数の納税者は政府支出を適切に制御し、自らのために用いられるようにするための、制度的および政治的な仕組みを持っていない。政府による数多くの事業とそれにかかる支出は、政治家と官僚の恣意的な差配によって決められてしまう(日本では、政治家も後になって気付くありさまである)。
  • オーストリア学派の経済学者Murray N. Rothbardは、実にうまく現代の「民主主義」国家における政府と個人との関係を形容している。この指摘は、国家主義や国家統制を正当化したくなる誘惑から人間の意識が自由になる上で、重要と考える。
We must, therefore, emphasize that "we" are not the government; the government is not "us." The government does not in any accurate sense "represent" the majority of the people.1

1  We cannot, in this chapter, develop the many problems and fallacies of "democracy." Suffice it to say here that an individual's true agent or "representative" is always subject to that individual's orders, can be dismissed at any time and cannot act contrary to the interests or wishes of his principal.
(Murray E. Rothbard, "Anatomy of the State", Egalitarianism As a Revolt Against Nature, p. 56, The Ludwig Mises Institute)

「我々」は政府ではない、政府は「我々」ではない。このことを我々は強調しなければならない。1

1 この章で「民主主義」の数多くの問題と虚偽について詳しく論じることはできない。しかし、次のことを指摘すれば十分であろう。ある個人の真の代理人または「代表」ならば、その個人の種々の命令に常に従い、いつでも罷免可能であり、その個人本人の利益や希望と矛盾した活動は行えないはずなのである。明らかに、民主主義における「代表」はそのような代理人としての機能をまったく果たしていない。(Murray E. Rothbard, "Anatomy of the State", Egalitarianism As a Revolt Against Nature, p. 56, The Ludwig Mises Institute)
  • 金融危機以後、論争が活発となっている、正社員と非正規社員との格差や世代間格差の問題は、一方では、雇用の柔軟性、ダイナミックな人材の活用、生産性の向上、産業構造の変化への対応、という人材の最適化による失業率の低減と生産性の向上という視点と、他方で最低限必要なセーフティネットと社会福祉および貧困対策、という2つの視点の両面が重要であって、これら両面における効果を最大化する政策が必要とされている。これについては、いくつかのポイントが考えられる。
    • 前述したように、政府を肥大化させる「福祉国家政策」は負債だけを残す結果となり、社会から活力を失わせることは明らかである。
    • 政府に富の分配をやらせることで、個人が幸福になれると考えるのは、詐欺師に金を運用させて利益を得ようとするのと同じことであり、損失と負債だけが残る。
    • だから、世代間格差の解消を図るために、資産課税や所得税などの政府の徴税手段を用いて資産の移動を行おうとする政策は、すべて政府を利する結果になるだけである。政府権力の行使はコストがかかり、徴税の強化は政府の肥大化につながる。
    • 「財源を確保するために増税が必要」という政府や政治家の常套句は、意味がない。なぜなら、それは政府が際限なく肥大化し、政府支出が減ることなく増大し続けること、つまり公務員と政治家を必要以上に温存・保護させ、彼らの恣意的な国民財産の蕩尽を見逃し続けるということを前提としているからである。
    • 「定額給付金」と将来における消費税増税とをカップリングしたような最近の議論は、意味不明である。なぜなら、負債を付け替えて元に戻すだけだからである。景気浮揚効果もはっきりせず、あっても一時的である。効果のはっきりしない政府の活動は無駄を生む。などと述べる必要もなく、ただ納税者を馬鹿にしているだけ、である。
    • 競争が疎外されると、失業率が上がり、経済は低迷する。競争を支援する政策が必要となる。
    • 正社員と非正規社員との格差、世代間の格差、など一連の「格差」はたしかに重要な課題だが、それだけが重要な格差なのではない。むしろ、公務員と民間労働者との格差の方がはるかに深刻なのである。それは、最近問題となっている人事院総裁と国家公務員制度改革推進本部(本部長=麻生太郎首相)との対立でも明らかである。天下りが常習の官僚が独立性を保証された人事官として政府主導の公務員制度改革に抵抗しているのであるが、このような争いが生じること自体が、現在の政府の無意味さを象徴している。公務員制度の問題を問うことなく、民間人の階層間・世代間の格差だけを論じるのは、片手落ちなのである。人材の有効利用による生産性拡大という課題は社会的課題であって、公務員だけを除外することはできないのである。
  • 以上の理由から、景気対策としては、融資枠の拡大などの緊急的なものを除いて、中長期的には、政府支出の削減と減税を容易にする方向で行う必要がある。
    • 大幅な所得減税を行う
      • (万一、短期的な増税が必要な場合でも、手法的には、あらかじめ小規模な減税を行った後で増税を打ち出すべき。また、それを繰り返し行って駆け込み需要を期待すべきである)
    • 成長産業への投資推進
    • 最低限必要な政府機関以外の政府機関の民営化
    • 負の所得税(Negative Income Tax)による最低限所得保障
    • 雇用の柔軟化、人材斡旋の促進
    • 軍事費の削減、効率化
    • 公務員制度の改革(公務員制度をほとんど無効とするほどの民営化を行う)
    • 国債の発行を抑制し、緊急のものを除き借り換えを行わない
    • 独禁法の例外の廃止
    • あらゆる不合理で恣意的な規制と政府による市場介入を撤廃する
    • 政府が有する多くの許認可権の放棄と規制の撤廃
    • 公共投資は最低限に抑える
政府機構を解体して超小型化することによって、上記は実現可能となる。
政府に依存しない自由な個人と市場により、経済は活性化される。

もちろん、これからも多くの未知の問題が派生するに違いない。しかし、その解決のために、人間社会が政府を、特に大きな政府を必要としていると考えるのは誤りである。なぜなら、政府の活動は常に、現在および将来の国民に対する負債を増大させるからである。そして政府の強権の存在は、常に個人の自由に対する深刻な脅威なのである。

おせっかいよさらば!

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政府は何をやっているのか 人事院総裁をめぐる不条理

Feb. 2nd, 2009 | 05:40 pm



人事院総裁、内閣人事局への組織移管に反対という記事には驚いた。

「(内閣人事局の役割を定めた)国家公務員制度改革基本法の枠を超えている」と主張して、さらに、「30日朝に予定されていた政府の国家公務員制度改革推進本部(本部長・麻生太郎首相)会合への出席を拒否した」

「国家公務員制度改革基本法の枠を超えている」という考えを持つことは自由だが、「枠を超えている」かどうかについて検討することは政府と国会であり、必要に応じて、それを改正すること、またその法律の内容について決定することができるのは、政府でも役人でもなく、国会である。必要なら国家公務員法全体を廃止したり改正したりすることができるのも国会である。もし、国家公務員に十分な労働基本権を与えることを国会が決めて立法化すれば、人事院そのものが不必要になるだろう。もし、立法府が決める法律が違憲であれば、それは最高裁判所が判断することなのである。

どちらにせよ、「国家公務員制度改革基本法の枠を超えている」という考え方をもつことは、人事院総裁が国家公務員制度改革推進本部への出席を拒否する理由にはならない。国家公務員制度推進本部は首相が主宰する政府の機関である。なぜ、人事院総裁は出席しないのか。総裁本人の考え方とは無関係である。

第一義的に、人事官は、国家公務員制度改革を推進する政府に協力すべきなのであって、制度改革自体に反対するのであれば、自説を曲げてでも改革に協力するか、そうでなければ辞職すべきである。政府の役人が政府の政策に協力しないのであれば、それは政治的なサボタージュとみなせるだろう。

人事官の罷免は弾劾裁判によらねばならない。公務員の地位や待遇に対する政治介入を避けるためにその独立性が必要とされるのだが、一部の公務員による行政に対する政治的な介入を許すために、その独立性が保証されているわけではない。もし、人事院総裁や人事院が不当なサボタージュを続けるならば、人事院は天下り役人の既得権益を擁護する政治的な勢力とみなされる。国家公務員法の改廃・人事院の廃止を含めた立法措置によって、そのような不要の政治勢力は政府から排除しなければならない。

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新常用漢字表の試案について

Jan. 18th, 2009 | 05:25 pm



小形氏のブログ『もじのなまえ』で、新常用漢字の試案が詳述されている。
http://d.hatena.ne.jp/ogwata/20090116#seeall


しかし、小形氏の過去の記事に対するコメントでも指摘されているように、そもそもこの新常用漢字なるものを決めなければならない必然性、必要性が希薄なのである。議事録を読んでも、その点は希薄なままで、さほど議論がされているようには見えない。はじめから、「必要だから作る」という既定路線があって、その上で事が進んでいるように見受けられる。

しかし、必要のないものを作る、必要のないものについて考えている、作らない方が問題が少ない、という基本的な点について、議論を深めることなく決められても困るのである。常用漢字が役所の文書だけのためのものであるならいざしらず、幅広い漢字使用にその威光を振りかざすのであれば、各論や詳細について議論する以前の、根本的な議論が必要となるはずだ。

そもそも政府が常用漢字なるものを作って、その影響の及ぶ範囲を一般の社会生活にまで広げ、個人の漢字使用に「目安」を垂れる必要などあるのだろうか。それは個人の漢字使用と漢字文化に対する政府による不必要な干渉なのではないか。

そういう根本の議論がないのなら、常用漢字について考えても、意味はない。と言ったら言い過ぎだろうか。

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